”早いものだ”と、この季節になると毎年同じことをぶつぶつと思い乍らクリスマスを過ごす。

そして、喧騒のうちに2011年という今年もやがて終るのだが、なにかしら心の奥が痛いような、口惜しいような、寂しいような感傷的な気持ちが涌くのは、やはり今年は東北に大災害があったからだろうか。

3月31日に此方を発ち、軍手とチョコ菓子を詰めるだけ詰めた鞄を持って、2日の日に仙台に入ったのだが、名取の家は二階の書棚が倒れた程度で、申し訳ないほどに無傷であった。

酷かったのは津波である。

名取市は太平洋岸から内陸に延びた、人口7万2千ほどの小さな町だが、閖上(ゆりあげ)、北釜、相の釜といった津波に襲われた沿岸部は、壊滅している。
名取市での犠牲者は死者911人今だ行方不明の者82人というが、犠牲の大部は昔からの漁港だった閖上からだという。
浪の音()も寿司屋も、何もかもが津波の一撃で一瞬にしてこの世から消えてしまった。

大地震が起きたのが、3月11日金曜の午後2時46分というから、働き手の若い人や子供たちは、職場や学校に行っており、家に残っていたのは爺ちゃま婆っちゃま、就学前の幼い子供などが多かったのは想像に難くない。
津波は午後4時ちょっと前に襲って来たようだが、停電状態の余震が続く中で、年寄りが小一時間で安全な場所まで退避するのは、難しかったろうか。

警察官、消防士、消防分団の方の犠牲者も多かったと聞く。
避難誘導にあたられ、未だ残っている人がいる、と大津波警報のなか、戻って行かれ職務に殉じた。
自分が助かる積りであれば、逃げて死なずに済んだ方々である。
地元に密着している消防分団の方などは、住民をその儘にして現場から逃げることはとても出来なかったろうか。(

津波の濁流に呑まれ、或いは流れ来た瓦礫の山に圧し潰されて、突然の、そして残念の死を幾人が余儀なくされたことだろうか。

佐々木市長も、災害直後は今は形見となってしまった親友の鞄を前に、暫くは”茫然自失”の態だったとか聞く。
「元気を出して、頑張って、出来る事から一つずつ片付けよう」と言うのはそうなのだが、それは言葉である。
沿岸地域は瓦礫の原と化しており、それが北も南にも果ても無く延々と続いている。
重機をはじめとする器材を持った大部隊でも投入しない限り、軍手ひとつでどうなるものでもない。

仙台空港の先の海辺の、北釜、相の釜は、よく海釣りに行ったところである。
投げ釣りでイシモチがよく掛かった。それにカレイやフグが偶に掛かってくる。

飛行場の脇を通り、松林を抜けると、急に視界が開けて一面の太平洋が広がるのは、私の好きな夏の光景であった。

まさかアメリカのTVで地元の風景を見るとは思わなんだ。それも、まるでSF映画のような・・・

いつの日か、あの海辺を歩く日もまたあるだろうか。

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