津田さんが亡くなられたとの話。

僻地住まいの悲しさで詳細がわからず、些か歯がゆい思いだが、まさか誤報でもあるまいし、御歳もかなりになられるだろうから、そうなのであろう。

日本では百歳以上の方が数万人になったといい、嘗て見ない長寿の時代ではあるが、普通には百歳までは人間なかなか難しいだろうか。

私とは正反対に仕事をしているのが好きな方であり、普通であれば悠々自適に暮らす頃に再び米国に来られてバリバリと仕事をされていたし、何時も若い世代と隔てなく話をされて、ものの考え方という事では”さすがわ”の視点があり、「なるほろ」と教えられることが多かった。
ただ俺の場合はやる事は御教えとは真逆に出て来るわけで、きっと津田さんも毎度脱力されていたことだろうか。
遊びのほうも晩年までカナダでスキーなどもされていたそうであるから、人生の愉快苦楽は満喫されたことであろうか。

60年代にLAに駐在されていたそうで、「あの頃のアメリカは、キラキラ輝いていたねえ~」と仰られていたが、当時の日米の経済格差は大きく、生活レベルの開きも大きかった。 ベトナムでの敗戦以前であり、若々しいJFK大統領で始まった時代であり、戦車師団など地上兵力では米欧軍を凌駕圧倒する巨大なソ連邦”赤い帝国”と対峙していた厳しい冷戦の時代であるが、自由と民主主義の理想を高らかに謳い上げたJFKの演説は当時の米国民の心を掴んだものと云う。

And so, my fellow Americans, ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country. (Youtube

厚顔憚ることを知らぬ日本の政治家先生と雖も、”諸君、国が何をしてくれるかでなく、国家社会の為に自分に何が出来るかを問え!”と、演台を叩いて高言出来る先生はまず皆無なことであろう。

JFK演説のこの一節はオレも好きで、your「country」のところを「husband」や「company」に置換えて使うのだが、大変なブーイングであった。
丸めた紙屑などが飛んで来たりもするので危険ですらある。
この台詞は、やはりJFKのようなカリスマ性をもつ愛国者だけが使ってサマになるものなのであろう。 他の者では「おまいが言うな!」ということになる。

LA時代に、日本の政治家が訪米し、出迎えに出ないで怒られた事があったという。
空港支店長が出迎えているのであるから十分であり、LA支店長まで出迎えに顔を出す必要など勿論無いわけだが、タラップの下に関係者全員が徒列していないと腹を立てる先生が当時はいたようである。
こんなのは病気とでも言って置けばよいわけだが、津田さんは些か真正直に過ぎるところもあり、目先の損得ということでは、損を被ることも時にあったようだが、人生全体では徳を得ている。

津田さんには、不釣合いに美麗な奥様がおられた。

何処でどう知り合われたのか詳しいことは知らないが、失恋百連発の俺の人生経験からいうと、”まあ解りませんがね”では綺麗な若い女性は絶対付いては来ないだろうから、”ぼくは君といる時が一番幸せなんだ”とか”幸せの青い鳥を二人で探そうよ”とか甘い言葉がそうゆう時はスラスラと出たものであろうか。
米国の女性社員の間でも人気が高く、単なる四角四面の朴念仁ではなかった不思議の人であった。

「何時かまた何処かで”やあやあ”と言って遭うこともありましょう。」と言われてから久しかったわけだが、人間誰しも何時かは”順番”が回って来るのであるから、黄泉の国で”やあやあ”と又再会することも何時かあるであろうか。

しかし考えてみると、津田さんは天国の一番地へ、おれの行き先は地獄の一丁目であるから、果たして”やあやあ”とゆう具合にいくかだが・・・



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ー60年代のアメリカに俺も居てみたかったナー