早いものでもうクリスマスである。

クリスマスを祝う町内の家々のライトアップが目映く、子供を連れて見物に来る車列も深夜にはさすがに絶えて静かなイブの夜である。

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基督様は馬小屋で御生まれになったとか。 最期は人間社会の罪を一身に負われて十字架に掛かったということだろうか。

 「神による奇跡」と言うことがあるが、体の障害が癒された等の即物的なことではない深いものがあるようである。
以下は東北学院時報第753号の宗教主任松井浩樹先生の「聖書のことば」欄より盗用。

すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことが出来るようになった。
                          -マルコによる福音書7章35節ー

マルコ福音書で散見する「群衆」という言葉は、他の福音書ではあまり見ることが無いマルコが好んで使う言葉であって、しかも良い意味で使わないというのも特徴的である。
主イエスはその「群衆」の中から、耳が不自由ということで同時に口から出る言葉をうまく話すことが出来ない人を見つけ出し、癒されたのである。
大勢の群衆の中からなぜ、この人を見つけたのか? 私たちと余り関係が無いようにも思えるが、実は私たちと全く関係の無い人ではない。というよりはむしろ、この耳と口が不自由な人というのは私たちひとりひとりのことを指しているのである。 人の話を聞くことが出来ない、いい加減に聞いたり、忘れたり、聞き間違えたり、時には自分に都合の悪いことなどは聞こえないふりまでもする。 また同じくして、話をすることにも不自由である。うまく伝わらない、人を傷つける、嘘をつく、誤解や勘違いも多々経験するのである。
 そうゆう本当のところで「群衆」の中に埋もれ、不自由に満ちている私たちを主イエスは癒されたのである。ゆえに、物語上で肉体が癒されたというだけに留まらない、非常に深い次元での人間の救い、魂の救いということが語られるのである。


 もう半世紀も前のことになるが、「バークレイ牧場」(The Big Valley)というTVドラマシリーズを仙台で視ていた。神の奇跡の一篇があったのを思い出す。Youtubeを探してみると再び視れるのが嬉しい、あの頃はAudra BarkleyもHeathもNickも皆流暢な日本語、それもズーズー弁でない綺麗な標準語を話していたものだが、今は皆英語を話すのが不思議である。 神の奇跡だが、人間の知識や知恵などというものはたかが知れ、浅いものであろう。むしろ解らないことのほうが多いであろうか。神の奇跡と言うのはあるのであろう。 ただそれは、財布の中にお札が無尽蔵に湧き出ますようにとか、飲んでも飲んでも減ることの無い酒瓶とかの猥褻な事しか考えないオレのような下級国民には生ぜず、美しい人にのみ起こることなのであろう。

Audra
The Big Valley "Brother Love"   Beautiful Linda Evans as Audra Barkley 1967
Audraが視力回復するのもそうではあろうが、本当の神の奇跡というのは若いイカサマ師が改心して真の信仰の道へと立ってゆくところであろうか。
 



心貧しき者に(俺かw)神の愛あれ! Peaceful Hymns for Kanpai ! 
Merry Christmas