夏が近いことを思わせる良い気候である。 緑を抜けて吹いてくる風が心地よく、空気が美味い。

 空気が美味しいというのも変な表現だが、こんな気持ちの良い緑の風が、子供の頃は仙台の街でも吹いていたように思う。 いつも見上げていた大きな欅の木も、近所の竹藪や雑木林も、かなり以前に消えてしまい今は高層マンションに変わってしまっているが、コンクリートの隙間を抜けて吹いてくる風というのでは、どうなのかだが。

 お騒がせなコロナウイルスだが、この辺は幸い小康状態にあるが、テキサスやフロリダなど南部の州等では感染者が増加傾向になっているところもあるのだという。 このウイルスは、暖かくなってくれば、日向の氷のように自然と消えてゆくインフルエンザとはやはり性質の異なるものなのであろう。

 中華人民共和国は、この武漢新型冠状病毒の蔓延にもかかわらず、尖閣諸島周辺に中国海警局の公船を連日送り込んでいたと言う。

 尖閣諸島は、中国が1971年12月になって、明朝の古代より争う余地の無い中華人民共和国の固有の領土である、と主張し始めたところである。(釣魚島は中国固有の領土である-白書訳文)(中国の「釣魚島白書」と領有権の主張

 海岸基線より12浬迄の領海から更に12浬先迄の接続水域は、犯罪の取締り等一定の主権の行使が認められている、言わば準領海とでも言うべき海域であるが、中国海警船の尖閣諸島接続水域内の航行は連日実施され、6月28日現在で78日連続の新記録となったといい、更に今も続いている。

 尖閣諸島の接続水域内を中国海警船が航行し「パトロール」するのが日常の事となってくれば、この先日本ではニュース性も無くなってくることであろうか。

 中国は、コロナ騒ぎの最中に、尖閣諸島に五星紅旗を高々と打ち立てるという目標に、歩みを一歩進めてきたことになる。

 中国海警船が尖閣諸島の日本領海内にまで侵入し航行するのは月に数回程度のようだが(中国公船等の動向ー海上保安庁)、5月8日には尖閣領海内で操業していた与那国町漁協所属の瑞宝丸(9.7t。金城船長以下3名乗組み)に対し、日本領海内に侵入してきた中国海警船が、退去を命じ、同船を追尾してきたという。 また、6月21日には、八重山漁協所属の漁船が尖閣接続水域で中国海警船による接近、追尾を受けていたと言う。(琉球新報

 何れも警戒中の海保の巡視船が間に割って入り、事無きを得たようだが、尖閣の日本領海内等で日本の漁船が中国海警船によって犯罪取締りの臨検を受け、船長等が逮捕され、中国本土の裁判所で中国の法により刑罰を受ける、ということが生じてくれば、尖閣諸島域は日本の完全な施政下にあるところとは、最早言えなくなってこよう。

 米国は、尖閣諸島は日米安保条約が適応されるところとしているが、その根拠は日米安保条約の第五条にある。
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第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
ーーーーー 
 日米安保条約は、「日本国の施政の下にある領域(in the territories under the administration of Japan)」への武力攻撃があった場合に発動となり、日米共同で対処することとしている。 単に日本の領土・領域とせず、「施政の下にある領域」としているのは、日本の領土・領域とした場合には、歯舞、色丹、国後、択捉や竹島の、領土係争地の問題が生じてしまう。 竹島などは米国は韓国とも防衛条約を結んでいる。 日本の領土・領域とせず、「日本国の施政の下にある領域」としたのは現実的な処理であったろう。

 「争う余地の無い中国の領土の不可分の一部である釣魚島およびその付属島嶼の主権を守るために断固として闘う」、と中国は宣っているのであるから、明日と言わず今日にでも人民解放軍を尖閣に上陸させて、日本の不当な窃取から尖閣諸島を解放してもよさそうなものだが、現状では自衛隊による反撃ばかりか、米軍も参戦してくることを想定せねばならず、ハードルが高すぎよう。

 先ずは、尖閣諸島領域の施政権は日本に帰属してるとは言い難い状況にして、米国の参戦根拠を排除する必要がある。 中国は今後、尖閣諸島域で日本漁船をターゲットとしてくることが予想されよう。

 尖閣諸島を行政区域とする石垣市の市議会は、尖閣諸島海域での漁船操業の安全確保要請の意見書を関係官庁あて出しているが、中国海警船に狙われる漁業者の不安は大きいであろう。 中国海警船に拿捕され、支那大陸に連行された挙句、日本政府との取引の餌にされて、トンデモな重刑を科されることなどは容易に想像できようか。

IshigakiIkenJunw2220
石垣市議会意見書・決議書

 米国が動かないことを確認した中国が、尖閣諸島を奪取するときが来たとして、日本が自衛権を発動して自衛隊と戦火を交えてしまうというのは、下策であり、自衛隊を出動させない状況を作為することを考えるであろう。

 自衛隊が勝手に作戦行動を起こすことは出来ないので、政治の決断の問題であるが、今後日本への政治工作、世論社会工作等を強化していくことであろう。 ことを急いで日本に急激な反中国感情を惹き起こしたのでは藪蛇なので、政治、経済、教育、マスコミ・・・あらゆる分野に時間も金もかけてジワジワと。

 自国の領土を守るか否かは、日本人の確固たる決意如何にかかっていることになる。

 いまから百年以上前の明治時代に、「南鳥島事件」という離島の領有権絡みの事件があったと言う。

 東裕一氏がこの事件の経緯を調べて、論文「南鳥島事件考察」を水交会の季刊誌「水交」に寄稿されているが、明治の日本人の毅然たる姿勢をそこに窺うことが出来、感動し、大変勉強になる。

 東裕一1佐(海自OB)は、海上自衛隊哨戒機のパイロットであった方で、飛行時間はP-2V、P-2J、P-3Cの哨戒機3代で、12600時間を超えたという。

 独立した日本の主権と、今日の繁栄を築きあげることを可能とした平和というのは、日々たゆまぬ防衛努力の上に成り立ったものである。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して平和を維持する、というのは理想であり目標ではあろうが、今日の日本の周辺諸国の動向には、残念乍ら理想にはほど遠いものがある。

 東1佐の、日本の安全保障への貢献に対し、一人の日本人として深く感謝申し上げたい。

 論文「南鳥島事件考察」掲載の御許しを東1佐よりいただいたので、以下に全文を掲載しておく。
感謝申し上げます。

☆南鳥島というのは、東京から遥か1850km、日本最東端の島である。
MinamitorishimaMap

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HyoA


はじめに


 平成
24年 6月 28日に開かれた資源地質学 会で、東京大学大学院の加藤泰浩教授(地 球資源学)らの研究グループが、南鳥島の 南西約300㌔㍍の海底で、レアアースを 多く含む泥層を発見したことが報じられた。

 レアアースとはイットリウムやネオジムな どの元素で、金属材料に微量を添加するこ とでその性能が大幅にアップすると言われ、 磁石やLEDの原料、排気ガスの触媒など に無くてはならない資源である。


 わが国ではこの大部分を中国からの輸入
で得て来たが、22年9月の尖閣諸島での漁 船衝突事件以来、中国政府が対日輸出を制 限するなど、外交圧力に利用されている。 そのレアアースが、わが国の排他的経済 水域の中で、年間消費量の220年分も見 付かったと言うことから、水域の起点とな る南鳥島が一躍脚光を浴びることになった。 しかし、この島が太古からわが国の領土 として確定されていた訳ではない。明治の 先人達の慧眼と迅速な行動によって実効支 配を確立し、子孫に残してくれたのである。


 今から110年前の明治35年に発生した
南鳥島を巡る米国との領有権争いについて は、今ではメディアに取り上げられること は殆ど無くなったが、尖閣問題を機にここ で改めて振り返ってみたい。


.時代背景


 19世紀から20世紀初頭の約百年は、列強
による領土拡張の時代であった。アジアに おいても、インドネシアは1800年以来 オランダの植民地とされ、フランスは18 87年にベトナムを植民地化し、アメリカ は1898年にハワイ共和国を併合、さら にスペインの統治下にあったフィリピンを 買い受け、抵抗する原住民を武力を用いて 制圧し1902年に植民地化した。 一方幕末の混乱を自らの手で乗り切って 列強の植民地化をまぬがれたわが国では、日清戦争に勝利して手に入れた遼東半島を 三国干渉によって還付させられ、領土拡張 の野心を持って満州平野に進出して来たロ シアとの関係が険悪になりつつあった。 来るべきロシアとの戦闘を想定して、雪 中行軍の訓練をしていた陸軍青森歩兵第5 連隊が八甲田山で遭難し、一度に199名 もの凍死者を出したのが明治35(1902)年1月のことである。 海軍ではこの年の5月18日、英国で建造 した軍艦「三笠」が横須賀に到着した。 国内では、この前年、官鐡東海道本線に 接続する山陽鉄道㈱が下関まで全通、中央本線の笹子トンネルが開通するなど交通イ ンフラの整備、有線電信による通信インフ ラの整備なども急速に進められつつあった。


.海軍の世代交代


 戊辰戦争で江戸城無血開城を実現し、維
新後は海軍卿として明治海軍の創設に貢献 した勝安房守(海舟)は明治32(1899)年に76歳で世を去り、元は陸軍中将であり ながら三つの内閣で10年に亘って海軍大臣 を勤め、初の海軍元帥の称号を贈られた西 郷従道侯爵は病の床に臥していた。

 明治31年には、海軍兵学寮出身の山本權 兵衛(兵2)が西郷従道の推薦を受けて海 軍大臣となり、世代の交代は着実に進んで いた。


.外務省


 明治35年7月13日19時10分、ワシントン
の高平全権公使から、小村壽太郎外務大臣 に宛てて次の電報が届いた。


 新聞紙の報ずる所に拠れば「キャプテ
ン、ローズヒル氏は近頃合衆国政府より「マーカス」島に対する権利を允(ゆる)されたるを以て該島占領の為めに一隊を率ひて七月十一日布哇(ハワイ)「ホノルヽ」港出発の筈なりと言ふ  又同「キャプテン」は機械 整備のため殆ど十八ヶ月以前該島に立寄 りしに同地には日本政府より附與(ふよ)せられたる公文証書を所持せる日本人二十名許(ばかり)在留せりと言う

 日本政府にして若し該島の所有権を主 張せんとせば本使は其の趣を合衆国政府 に通告せんと欲す 然れども右の場合に は本使は其理由に付御通報を煩はしたし  而して同「キャプテン」に面会し詳細 の説明をなすが為めに直ちに軍艦一隻を 該島に派遣せられたし  右至急御返電を乞ふ (ふりがなは編集部で加筆:防研史料)


 ワシントンでの新聞報道によると、ロー
ズヒルという船長が、米国政府の許可を得 て南鳥島を占領するために7月11日に一隊 を率いてハワイを出航したと言うのである。 日本政府が南鳥島の領有権を主張するので あれば、公使みずからそのことを米国政府 に伝達するが、既に海上にあるローズヒル 船長には通信の手段が無いから、日本から 軍艦を派遣して同船長に詳細を説明するよ う助言して来たのである。


 この電報は海軍省へも回付された。


 
外務省ではこの高平公使からの電報に対 し、小村外務大臣の名で7月15日15時10分 発電で


 マーカス島(北緯二十四度十四分東経百
五十四度に在り)は、南鳥島と名付け小 笠原群島に編入した上、明治31年に東京府の管轄としたことを同年7月24日に公 示した。同島は数年前から水谷という本 邦人に貸し下げられ、同人は4~50名の 日本人を連れてこの島で魚や鳥の捕獲に 従事している。公使はこの事実を米国政 府に伝え、注意を喚起すると共に、既に 同島占領の許可を出してしまったのであ れば、無用の紛糾を避けるために速やか にこの許可を取り消すよう米国政府に勧 告するように (現代文に意訳)


との訓電を発した。第一報を得てから44時
間で、外務省としての方針を決定し、出先 に訓電しているのであるから、迅速な措置 と言える。


.日本での新聞報道


 明けて翌朝7月16日の東京朝日新聞にロ
ンドン発の次の記事が掲載された。

●米国の孤島占領計畫

 十四日倫敦(ロンドン)特約通信員發

  紐育(ニューヨーク)來電に依れば合衆國政府は近頃小笠原島の東南約五百哩にあるマーカス島 占領權を以てキャプテン、ローズヒル氏 の組織せる遠征隊に附與したり  然るに マニラを發し同島を經て桑港(サンフランシスコ)に歸着したる米國運送船シェリダン號の齎(もたら)せる報告を聞くに右遠征隊は其目的を達し得ざ りしものゝ如し  即ち同島には日本兵あ りて其司令官は日本政府より附與された る同島占領の命令を示してシェリダン號 の退去を命じたりと云ふにあり 之が爲 が国務卿ヘイ氏は東京駐紮(ママ)公使バック氏に打電して其報告を命じたり


 複数の情報を総合すると、日本兵の駐留
などという間違いはあるものの、米国籍の ローズヒルという野心家が帆船を仕立てて 南鳥島を占領しようと企んで出航したこと は間違いないものと判断された。


.海軍省軍務局


 海軍省軍務局第一課に勤務していた眞田
鶴松少佐(のち大佐:兵15)は、運用担当 者として、外務省、陸軍省、内閣法制局な どに頻繁に足を運びながら次々に発生する 問題を処理していた。 この時も、電報のや り取りを見て、まずローズヒルと言う人物 について情報を集めようと考え、外務省に 出向いて旧知の山座圓次郎通商局長に聞い てみたが、電報以上のことは分からない。


 
とりあえず、海軍として何が出来るか、 いや何をしなければならないかを書類にま とめて報告しようと軍用罫紙に向ったが、 相手の可能行動を考えれば考えるほど対応は急を要し、とにかく時間がない。


 
同少佐はこの事件から38年経った昭和15年の『有終』(海軍退役者の会有終会の機 関誌)に当時を振り返った手記を載せてい る。


 …私はこれを読んで驚いた。ここは無
人の一小島にすぎず、産物は椰子の実と 魚介類に過ぎないが当然日本の領土であ る。明治31年7月24日、東京府告示で同 府の管轄に編入したことを官報で告示し ている。 しかしこれを日本の領土とする 旨の国際的宣言をしなかったことに米国 人野心家が注目した。 ことは日本の国旗 問題である。 米国のスクーナーがいかに 貿易風に恵まれたとしても到着までには さらに旬日を要するであろう。 この際、 一軍艦を派遣してこの島に日本の国旗を たて、日本の領土であることを明確にし なければならない。

(『有終』昭和15年10月号意訳以下同じ)


 ホノルルから南鳥島までは、直線距離で
2,663海里、快速のスクーナー型帆船 が貿易風に恵まれたとしても平均速度8㌩ を維持することは困難である。 到着は7月25日以前になることは無いだろうと踏んで、 眞田少佐は次の報告書(スタンスペーパー) を起案した。


 米国商船船長「ローズヒル」氏は本国政
府より「マーカス」島を占領することの 允許(いんきょ)を得て七月十一日布哇(ハワイ)を出発し同島に向へり云々と 而して右占領計画は数 年前一たび同島を探検し同島に日本人数 十人在住することを確かめたる上にての 願出なりと

 同島は明治三十一年七月帝国東京府の管 轄に属せしめられたるものにして純然た る帝国の領土となりたるを以て其の当時 公然同島を日本領土に編入する旨を世界 に公布せらるゝこそ至当なりしならん乎(や)(小笠原島付属硫黄島の例是なり)東京 府の告示のみにては世界に対する公告と 謂(い)ふを得ず   然れども今日事実同島に日本人在住する 以上は日本の領土たることは断言し得る 所にして世界何人が之を争ふことを得ざ るものと信ず

 右七月十一日以後在米高平公使と我外務 省との間数回照復せられ米国政府及同国 の興論は同島を日本の領土と認むる旨の 傾向あり 否確と其の趣あるやに聞けり 然れども是れ総て七月十一日以後の事に 属す

 七月十一日布哇を発したる右米船長は電 信不通の海洋に於いて何ぞ右等の消息を 知るを得んや  必ず一意専心「マーカス」 島に米国国旗を樹つることを期するならん 其の機に至り同島に在る日本人を殺 戮する等のことは文明国人の性質に訴へ 萬々之れ無かるべきも之に退去を求むる 等の事は或は之あらん 然るときは是れ 由々敷国旗上の大問題なりとす

 この場合に於てこそ国旗保護は海軍の本 任務なるべしと思考す

 仮会米船が本国政府の意思の変更を知ら ずして一時錯誤に出でたる處置は後日之 を矯正するの道ありとするも一たび汚(けが)されたる国旗の汚点は除くべきにあらず且 つ国旗の汚されつゝあるを知りながら等 閑視するは国家海軍を置かれたる御主意 にあらざるべし

 依て此際高平公使来電の末文にある如く 至急一快走巡洋艦(位置と謂(い)ひ艦種と謂ひ笠置こそ適当ならん)を「マーカス」 島に派遣せしめられ帝国国旗保護の途を悉(つ)くされ可然と思考す (防研史料)


 文中、「国旗」との表現がたびたび出て
来るが、これは、国の旗という意味だけで はなく今で言う「国益」と考えた方が理解 し易い。この報告書は短時間で海軍大臣ま で回覧され、海軍の方針として決裁された。


 軍艦笠置は、明治31年秋に米国フィラデ
ルフィアのクランプ造船所で竣工し、英国 に回航、アームストロング社で備砲を搭載した防護巡洋艦である。レシプロ蒸気エン ジン2基で、15,500馬力を発揮し、 公試では、最高速度22・5ノットを記録してい るが、この時代には海洋生物の付着を減じ る船底塗料はなく、頻繁にドックに入れて 牡蠣ガラを落とさないと極端に燃料消費が 多くなる。笠置も数日中にドッグ入りを予 定していた。


横須賀から南鳥島までは、ちょうど1,000海里、巡航速力の10ノットで走っても4日と4時間を要し、帆船よりも先に同島に
到着するためのタイムリミットが刻々と迫っ て来る。

Kasagi


.西郷元帥の海軍葬


 病床に臥せていた元海軍大臣西郷従道伯
爵が、7月18日朝に亡くなり、7月22日に青山斎場で海軍葬が行われた。


 同氏の生前の功績から葬儀はかつてない
規模となり、葬列の先頭には警察の先導部 隊、次に陛下の特別の御沙汰で差遣された 近衛騎兵1個小隊、海軍軍楽隊、続いて陸 海軍儀仗歩兵隊、喪章を付けた砲6門を曳 く海軍砲隊、更に徒歩の五等爵の人々に続 いて柩を乗せた霊柩砲車が海軍儀仗兵に曳 かれ、最後に会葬者数百名が続いた。


 
海軍儀仗隊の指揮官は、軍艦笠置の艦長 である坂本一(はじめ)海軍大佐(兵7)が勤め、他に将校41名、下士以下1,014名が参 列した。(東京朝日新聞 明治35年7月23日)


.軍艦笠置への派遣命令


 軍務局の眞田少佐は、海軍葬の当日も朝
から外務省との調整に駆け回っていた。 米 国帆船との交渉がもつれる事を想定すれば、 軍艦の乗員が交渉の当事者となるよりも、 国際法と外交交渉に通じた外務職員を同行させて直接交渉にあたらせる方が適切であ る。その人選は外務省にまかせるとして、 海軍省では軍艦派遣に関する事務処理が大 詰に来ていた。国際問題の解決のために軍 艦を動かす権限は海軍大臣には無い。無論 外務大臣にも無い。ご裁可を仰がなければ ならないのである。


 
結果として眞田少佐の案のとおり、準備 出来次第笠置を派遣することが裁可され、 次の電報が発信された。


三十五年七月二十二日起案

貴艦は南鳥島へ派遣の所に付入渠を止め 石炭を満載し至急航海準備をせられたし 但し之が為め本日西郷元帥葬儀に出張の 貴官及貴艦乗員を中途呼返さるに及ばず

 三十五年七月二十二日  笠置艦長(あて)

(防研史料)


追い掛けるように、午前10時35分に


貴艦出航の日時予定次第速に報告せら
れたし

三十五年七月二十二日笠置艦長(あて)

(防研史料)


と発信されている。入渠準備をしていた
艦に速やかに出航時刻を知らせ…とは、相 手の立場も考えずに上級司令部が自分の都合を押しつけるのは昔も今も同じである。


 さて、緊急出航の命令を受けた笠置艦長
は海軍葬の儀仗隊指揮官である。一刻も早 く命令を伝達しなければならない。眞田少 佐が外務省から帰ると斎藤實次官が待ち構 えており

…斎藤次官は、私を迎えて「内命はす でに笠置に下した。笠置艦長坂本大佐は 儀仗兵の隊長として今、西郷家にいる。 君はただちに西郷家に行って事の詳細を 坂本艦長に伝えよ。君が乗る二人曳きの 人力車は既に玄関前に待たせてある。」 と命じた。


 事は急速に動いている。


 私が二人曳き人力車で目黒の西郷邸に
着くと葬列はすでに発進しつつあった。 坂本大佐は儀礼刀を抜いて右肩に添わせ 儀仗隊の先頭に立って青山斎場に向って 進んでいた。私は人力車を降り、坂本大 佐と並んで歩きながら、詳しく事の次第 を告げた。坂本大佐は大いに喜んで「そ うか、そうか、自分は今日の葬儀を終え 次第横須賀の笠置に帰艦する。委細準備 は副長がすでに行っており、汽缶には点 火しているだろうから、本日夕刻には必 ず横須賀を出発する。大臣閣下、次官閣 下に宜しく報告してくれ。」と言った。 (『有終』の記事意訳)


-続く―