笠置の留守を預かる副長黒井中佐は直ち に出航準備にかかった。糧食、真水の外に 燃料の石炭が不可欠である。同艦の石炭の 満載量は千トンであるが、今は150トンしか 残っていない。航海日数を見積り、取り敢 えず750トンの石炭を積むことにした。海 軍省からの報告要求に対し
総務長官(あて) 笠置副長
電報 二十二日後一、七
大至急出艦準備を為しつゝあり 石炭七百五十噸積込む 明日午前中には 了(おわ)るべし 右終われば出航差支なき見込 但し未だ訓令は到達せず
(防研史料)
と返電した。石炭の搭載は極端な労働集約 作業である。しかし乗員の大部分は東京の 海軍葬に参列している。横須賀地区の人夫 をかき集めようとしたが、担当部署の係員 も葬儀で不在のため中々思うように人が集 まらない。ついつい泣きが入る。
二十二日後七時五〇分(海軍省)着 小栗秘書官(あて) 笠置副長
御書面拝見す 南鳥島に関する訓令及書 類未だ到着せず郵便局取調中なり 石炭積込の外總て準備整頓せり 石炭需品庫 の手配宜しからざる為めに人夫急に集ら ず 漸く四時過ぎより搭載を始めたり遺 憾に堪えず
兵員は儀仗隊に出せし為め機関部員の外 僅かに二十名残り居るに過きざる故充分 なる働を為し得ざるを憾(うら)む 今夜は徹夜して搭載する筈 現在高百五十噸 尚七 百五十噸搭載の見込 今夜非常の故障起 らざれば明朝午前一時頃迄には搭載を終 るべし 出艦時刻は艦長歸艦の上にあら ざれば決定すること能(あた)はず 先づ同時刻頃なるべし 便乗者は明早朝乗艦のこと 便宜ならん
(防研史料)
9.対米折衝
外務省では、ワシントンの高平公使を通 じ、また東京の米国公使館を訪れて、不断 の情報収集と外交折衝が行われた。
ロシアが満州に兵を進めているこの時に 新たに米国とのトラブルは起したくない。 かと言って、わが国民が居住する南鳥島が 外国人に占領されようとしている現実を座 視することは出来ない。外務省としては事 態を拡大させずに終息させる方針を決定し 高平公使に伝えた。
高平公使の情報収集によれば、ローズヒル船長は1889年の航海中に南鳥島を発 見し、米国政府にそれを報告した。さらに 同島に堆積している鳥糞を採取して肥料に する事業の許可を申請したが、正式な申請 書類として取り上げられず、13年間何の音 沙汰も無いため、今回強く要請して政府の 占有許可を取り付けたことが判明した。 同公使は、マーカス島にはローズヒル船 長が来着する以前に日本人が同島に漂着し ていること、その後日本の事業者によって、 魚や羽毛の採取事業が行われ現在も継続し ていること、1898年にはこの島を東京 府の管轄にする旨の公示がなされたことを 説明し、米国人が発見した事実だけで米国 の属領とは出来ない、と正論を主張して占 有許可の取り消しを求めた。
(7月19日ワシントン発公電第54号意訳)
米国は公論を重視する国である。明確な 記録は見付からないが、国務省との折衝と 並行して日本公使館から世論操作のために 有力な新聞社に働きかけたことは間違いな いであろう。ついにこの問題は国務省法律 顧問官の審議に附され、結論として在日本 米国公使に対し、ローズヒル船長に、日本 人居住者との衝突を避けるよう命令する訓 令を発信することとされた。もちろん南鳥 島に派遣される日本海軍の軍艦を通じてロー ズヒル船長に伝達することを見越しての処置である。
この伝達と外交問題が生じた場合の処置 のために外務省の石井菊次郎書記官(のち 外務大臣)が笠置に同乗することとなった。 現在の海賊対処でソマリア沖に派遣される 護衛艦に海上保安官が同乗することに通じ る措置かも知れない。
石井書記官は、出発の直前まで在日米国 公使と調整にあたり、米国公使からローズ ヒル船長に宛てた書簡を取り付けた。
10.笠置出航
笠置には結局、1,000トンの石炭が満 載された。出航準備が整ったのは7月23日午前9時である。石井外務書記官は、米国 公使との調整を終え、午後0時20分新橋発 の汽車で横須賀に向かった。
同書記官の到着を待っている笠置にさら に海軍省総務長官から次の電報が届いた。
外務大臣よりの依頼に依り南鳥島移住民に米十五俵及之に伴ふ味噌醬油を贈らる 右の品々其地に於て直に調弁し積込みあ りたし 代価は後日当方より支辨す
(海軍総務長官から笠置艦長への電文)
誰かの思い付きで突然指示された住民への「おみやげ」がどのように調達されたか は分からないが、大急ぎで900キロの米 と味噌、醬油が午後2時までに笠置に積み 込まれた。 副長がまだ着かないとやきもきしていた 訓令も到着した。内容は次のとおりである。 (7月23日午前1時笠置受領)
三十五年七月二十二日起案 海総機密第二四三号
訓 令
米国商船々長「ローズヒル」は本国政府 より允許を得て南鳥島を占領することの 許可を得たる旨外務大臣の通報に接す 該島は東京府の管轄に属し現に水谷某等 二十余人在住せり 貴艦は航海準備整ひ 次第同島に至り帝国領土及居住民保護の為慎重事を行ふべし
三十五年七月二十二日 笠置艦長 海軍大臣
追△( ← 一文字不明)
本件の為国際問題を惹起こされん様注意 すべきは勿論「ローズヒル」の一行に対 しては平穏の手順を取る事に注意すべし
準備がすべて整い、笠置は7月23日午後 4時に横須賀を出航、一路南鳥島に向かっ た。第一報を得てから丁度10日目である。
11.南鳥島
南鳥島は、長辺が1,500メートルほどの二 等辺三角形の珊瑚礁である。 20万年ほど前 に海底が隆起して島になったと言われる。 面積は1・51平方キロメートル、(良く使われる表 現に従えば東京ドームの32倍)標高は最高 点でも海抜9メートルしかない。
井戸を掘っても真水は得られず、飲料水 は天水を貯めて使っている。明治時代には 島の南西部に2ヘクタールほどの樹林があり、一千 本ほどの椰子が茂っていたと記録されてい る。雨が少ないためその外には、大きな樹 木は育たず、モンパと呼ばれる低い灌木が 地面を覆っている。
島には天敵がいないため、この時代には、 軍艦鳥やカツオ鳥などが一年中島に住んで おり、その外に、秋になるとおびただしい 数(足の踏み場も無いほど)のアホウ鳥が 飛来し、翌年の春まで営巣して子を育て、 再び太平洋のどこかへ飛び去って行った。
アホウ鳥は人を恐れないため、棍棒一本 で簡単に撲殺できた。明治時代には、この 大型の鳥を捕獲して羽毛を採取し、羽根布 団の原料として、また小型の鳥は剥製に加 工し装飾品として、ヨーロッパ方面に輸出 することが一つの産業として根付いており、 この時には29人の日本人が島に居住してこ の作業に就いていた。
12.笠置の航海
笠置は、東京湾を出て野島崎を過ぎると 進路を南鳥島に定めた。坂本艦長が得た情 報によれば、ホノルルから南鳥島に向かっ ている米帆船「ジュリア・イー・ウォーレ ンス」号は、過去のサンフランシスコから ハワイに至る航海で、平均時速6ノットを記録 したという。その速度を当てはめれば、18日半ほどで南鳥島に到着することになり、その日付は7月29日となる。笠置はそれ以 前に南鳥島に到着しなければ上陸された後 では面倒な交渉が増えることになる。
本艦の経済速力は10ノットであるが、前回の 入渠から8ヶ月を経て船底には多くの海藻 や牡蠣がこびり付き、その速度を維持する のも容易ではない。笠置の機関はレシプロ 蒸気機関である。構造は蒸気機関車のエン ジンと同じで、速度を上げると石炭の消費 が加速度的に増える。それを我慢して罐に 石炭を放り込み放り込み、ついに7月27日 午後6時に南鳥島に着いた。平均速度は丁 度10ノットである。
太陽は西の空に沈んだばかりでまだ明る い。目を凝らして島の隅々まで眺めても星 条旗は見えない。付近の海面に帆船のマス トも見えない。艦長は安堵してその夜は島 の風下側で漂泊した。
13.南鳥島への上陸・駐屯
翌朝、日出とともに航進を起し、島の周 囲を回って地勢を調査した。三角形の島の 外側100~200メートルほどに島を取り巻く 形でリーフがあり、本艦では内側には入れ ない。その外側は、急に深くなって錨は打 てない。島の南側に僅かにリーフの切れ間 があり、小船が達着できる。そこに短艇を 着けて士官を上陸させた。島の住民に聞き 取り調査をしたが、米国の帆船が来着した 兆候は見られなかった。
笠置は沖合に漂泊し、積んで来た荷物の 陸揚げにかかった。最初に外務大臣から預 かって来た米・味噌・醤油を運び、住民の 代表者に引き渡して感謝された。続いて基 地を開設するためあらかじめ準備した資材 を陸揚げし、多くの乗員と居住者の協力に よって、間口六間、奥行き三間( 10.8メートルX5.4メートル)程の営舎を建設した。
艦は漂泊していても自艦の位置を保つた めに常に罐の蒸気圧を上げて置かなければ ならず石炭を消費する。坂本艦長は、笠置 がいつまで漂泊出来るかを計算させた。横 須賀で急いで積み込んだ石炭の中に品質の 悪い物が混ざっており、往路の石炭消費が 予想外に多かった。検討の結果、この日(28日)一日を資材の陸揚げと調査に費や し、翌29日には南鳥島を離れないと復路の 石炭が不足する恐れが出て来た。
艦長は、米国帆船に対抗するために陸上 部隊を編成して島に残すことを決心し、海 軍中尉秋元秀太郎(兵26)に隊長を命じた。 さらに乗員の中から看護員、信号員、大工 を各1名、屈強な下士卒13名を選んで小銃 で武装させ秋元の指揮下に入れた。 彼らに2か月分の食糧と短艇、海水の蒸 留造水器や測量器材を残して笠置は7月29日正午に南鳥島を離れた。 明治海軍の偉いところは、たった一人の 海軍中尉に国家の運命を託する態度である。 今、同じ状況が発生したら誰を島に残すで あろうか。
坂本艦長は島を離れる前に秋元中尉に次 の細部事項を書面で指示している。
一 米国商船船長「ローズヒル」が来着 したならば、東京駐在の米国全権公使 の書簡と外務書記官石井菊次郎の書簡 を同人に渡すこと
一 もしこれらの書簡を米国船長に渡し ても帆船を出発させる様子が伺えない 時は直ちに出発するよう同人に請求す ること 但し船舶の修理等のため一時滞在の要求があった時は勉めて便宜を 与えること
一 島への上陸を要求されても許可して はならない。もし船長から健康保持の ため船員の上陸を要求された場合には、 一回5名以下に限り、かつ監督者を付 けることを条件に許可しても良い。
一 次の16名を貴官の指揮下に入れて滞 在させる。(固有名詞は省略) 一等兵曹1名、二等看護手1名、一等 水兵5名、一等信号兵1名、二等水兵 6名、三等水兵1名、三等木工1名
笠置は、8月3日午後0時15分に横須賀に帰着しその任務を解かれた。
14.米国帆船への退去要求
以下秋元中尉から海軍大臣に提出された 「南鳥島に関する報告」を元に構成する。
笠置が南鳥島を離れた翌日、7月30日午前11時に米国の帆船が来着した。秋元中尉 は海岸に近づいた同船に対し、「止まれ 我汝と交渉すべき件あり」の国際信号を送っ て、用意させた短艇に乗り、同船に向かっ た。その途中で先方も短艇を降ろして別の 海岸に向かうのが見えたので急いで船着き 場に戻って陸上で3名の米国人と会合した。
彼らの持参した教書から、1名は船長の ローズヒル、他の2名は、地質動植物研究 のため今回特に帆船に便乗して来た米国農 務省特派のセドウィック博士とビショップ 博物館のブライアン博士で、本年7月10日 (日本時間11日)にホノルルを出港した船 に間違いないことを確認した。 3人を営舎に入れ、石井外務書記官から 預かった書簡をローズヒル船長に渡した。次いで秋元中尉がこの島に滞留している理 由を説明した上で船長に対し、すぐに出帆 するよう退去要求を行った。
船長らは、当初、米国政府から与えられ た自らの権利を主張したが、渡された書簡 に目を通すと、その権利を取消されたこと が分かり、明らかに落胆した様子が見てとれた。 しばらく米国人3人で打ち合わせて いたが、これから海上が荒れ模様となるこ と、乗員の健康維持のために一時上陸が必 要であること、両博士の研究もある程度実 施したいことを理由に上げ、何日か島の周 りで帆船を漂泊させたい旨を要求して来た。
秋元中尉はこれを呑んだ。坂本艦長の指 示どおり、乗員の上陸は一度に5名以下と し、責任者を付けることを条件に許可した。 2名の学者には当時空家になっていた住居 を清掃し、住民の中から選んだ世話人を付 けて、1週間の滞島を許可した。 出帆の予定日は8月6日であったが、こ の日は風波が強く、短艇の達着が困難で、 1日遅れの7日午前9時に両博士が島を離 れ、10時に「ウォーレンス」号はホノルルに向け出帆した。
秋元中尉は使命を完遂した。領土の争奪 にありがちな武力衝突を避け、すべて平和 裏にことを進めてわが国最東南端の領土と 住民を護った。
当時は陸戦隊という呼び名はまだ無かっ たが、事実上の陸戦隊となった17名は、迎 えに来た軍艦高千穗に乗って8月29日に南 鳥島を離れ、父島経由9月5日に横須賀に 無事帰着した。南鳥島での生活は32日に及 んだ。
15.秋元中尉のもう一つの功績
秋元中尉が在島中に成し遂げた仕事で後 世に残したもう一つの大きな功績がある。それは南鳥島の地図を作成したことと、位 置(緯度経度)を確定したことである。
当時の海図の精度は粗く、特に絶海の孤島の場合にはその緯度経度には信頼が置けなかった。秋元中尉は昼夜にわたって天測 を繰り返し、島の位置を確定した。同時に 部下を指導しながら島の測量を行って略測 図を完成させた。この地図では島の南西端 から時計回りに「笠置崎」、「黒井崎」、 「坂本崎」と艦名と艦長、副長の名字を名 づけ、この名称は現在でも使われている。
横須賀帰投後、海軍大臣への文書で、北 緯24度17分東経153度59分と報告された緯度経度と島の地図は、その後海軍公認と なり、明治37年2月海軍水路部発行の海図 第73号には、「本図は明治35年軍艦笠置乗 組海軍中尉秋元秀太郎略測に係る」と明記 されている。
この時に秋元中尉が確定した緯度経度を 現在の国土地理院が人工衛星を使って位置 決めをした最新の2万5千分の一地図に当 てはめて見ると、ちゃんと島の南東部分に 入っている。(下図参照)
正確な時計の無かった明治35年の天測で ある。六分儀を使った経験をお持ちの方な らその困難性が十分理解できると思うが、見事と言うほかない。
おわりに
新聞情報によれば、米帆船「ウォーレン ス」号にはモーゼル銃で武装させた私兵の 一隊を乗せていたという。また農務省派遣の博士は40種類におよぶ農産物の種子を持 参していた。このことからも、ローズヒル の一行が南鳥島の永久占領を企図していた ことは明らかである。
また、「ウォーレンス」号の関係者がホ ノルルの新聞記者に語ったところによれば、南鳥島に到着後、アメリカ政府から発行さ れた許可書を根拠に強硬に上陸を求め、住 民から拒否された場合には、一旦引き下がっ たと見せかけるために、島から見えない距 離まで船を離し、暗夜に乗じて銃隊を強行 上陸させて島に星条旗を打ち立てるという手順が定められていたと言う。
もし笠置の特設陸戦隊が先行駐留してい なければ、 29人の住民の運命はもっと悲惨 なものになっていたかも知れない。
明治の先人たちが見せた領土保全に対す る迷いのない決断、迅速な行動に感謝しな ければならない。
南鳥島は、その後陸海軍の基地が建設さ れ、大東亜戦争では本土防衛の最前線となっ たが、連合軍の上陸は免れた。その代り、 艦載機による爆撃が繰り返され、島の自然 は一変した。今は一羽のアホウ鳥も来ない。
筆者は、現役時代、P‐2Jの操縦士と して物資の補給や人員輸送で、また幕僚の 時には部隊視察等で何度も南鳥島を訪れた。 数時間の洋上飛行の末にようやく見えてく る南鳥島は白いサンゴ礁に囲まれた美しい 緑の島で、いつ見てもほっとする。
今から110年前に起こった南鳥島事件 は今では知る人も少ないが、佐野純弘会員 が昭和15年の有終会の機関誌『有終』に掲 載された眞田大佐の記事を発掘、紹介して くれた。調べて行く内に、防衛研究所に多 くの史料が残っていることが分かり、本稿 の執筆に至った。尖閣問題を考える上で読 者のご参考になれば幸いである。
(ひがしひろかず 航学17期)