いまから70年前の12月8日(米国では12月7日)は、オアフ島の真北230浬に進出した南雲機動部隊の6隻の航空母艦から、黎明と同時に第一波、続いて第ニ波の航空攻撃隊が続々と発艦し、パール・ハーバーを奇襲した日である。
これにより戦火は地球全域を覆うこととなり、全世界規模の第二次世界大戦へと人類は突入している。
当時米国は、欧州の戦争に直接参戦は未だしていないものの、ナチス・ドイツとは明確に対峙しており、対日交渉に於いても、平和的に解決し得る構図のものではそもそも無いので、いずれ参戦は避けられないとの考えもあったろうし、日本軍の戦争準備の兆候も諜報情報によりある程度把握しており、”日本に先に手を出させる”との戦略方針もあったろうが、350機余りの作戦機を集中運用し、2時間余りに亘って太平洋艦隊の根拠地であるパール・ハーバーが痛撃されるとは、想定外だったろうか。
平和解決の外交交渉の最中に突如として日本が攻撃して来たことに驚いたのでなく、米政府高官や軍高官は、極めて高度な軍事航空作戦能力を日本が有するのを具体的な形で示された事に驚愕した、と言うところだろうか。
今次大戦に下級将校として参戦した経験を持つ我が家の帝國陸軍は、昭和16年当時は陸軍士官学校生徒であった。 9月15日に予定されていた卒業を控えて、その年の夏は各兵科毎に最後の卒業演習に励んでいた。
野営演習中の7月初め、突如として”演習中止、集合”の命令が下り、座間本校に引揚げ、7月中旬に繰り上げの卒業式が慌しく執り行われている。
士官学校を卒業したからといって直ぐに小隊長として部隊指揮が出来るというものでなく、卒業後は各兵科毎の学校(歩兵学校、戦車学校、工兵学校等)に数か月行って専門を修得してからということになる。
来るべき戦争の凡その開始時期から逆算して、繰上げ卒業が為されたものであったろう。
当時は軍が進出した支那大陸において既に戦闘が継続していた時代であり、軍籍に身を置く者として生徒達は、”人生50年、俺たち半額25年”と嘯いていたというが、それも対英米戦ともなれば、日本が嘗て経験したことの無い大変な戦争になることは軍人だけに予想が付いた。
一通りの訓示を終えて窓際に立っていた区隊長が、「偉い人がどんなに頑張っても、どうにもならないこともあるのだなあ」と、独り言のように呟いていたのを憶えているという。
皇国日本が核心となって大東亜を新たに興し、天皇の御光を日本人のみならず数多外国人にも知らしめ、八紘に一宇する平和を築くことが、当時の日本の考える正義・大義であったろうし、世界のどの国も認めず、日本が国際連盟を脱退することとなった満州國問題も、”守れ満州、日本の生命線”と叫ばれ、新聞などのマスコミや、社会のオピニオン・リーダーたちも、英米排撃、国民の団結・犠牲・覚悟を率先して煽っていた時代である。
昭和16年の夏以降などは、戦争へ戦争へと転がる大きな歴史の歯車は、もはや誰にもどうにも止められない勢いであったろうか。
今次大戦での犠牲者は日本人だけでも300万人と言われるが、陸士55期の一千七百有余の若者もその過半は25歳に達することもなく、戦場の露と消えている。
陸軍予科士官学校時代の檜野生徒。 昭和14年4月に市ヶ谷台の正面玄関前で写真屋が撮ってくれたものだという。
後ろのバルコニーは、後に三島由紀夫が檄を飛ばすことになったところ。
当時の予科士官学校長は牛島満閣下。
沖縄の第32軍司令官として、昭和20年6月23日摩文仁の洞窟で自決された将官である。
学校なので時々ペーパー・テストがあったそうだが、卑怯な振る舞いを最も賎しむべき事とする軍人であり、カンニングなど無かったので立会いの区隊長(教官)も至ってのんびりしたものだったそうで、特に根来区隊長(根来卓美:戦後航空自衛隊。航空総隊司令官)などは大胆で、”はじめ”と言うなり自分はグウグウと寝て仕舞っていたという。
ある時、校長閣下がテスト中の教室に視察に入ってこられた事があったという。 根来区隊長は気付かず、相変わらずグウグウと気持ち良さげに御眠りである。
校長は、その儘音を立てぬよう静に扉を閉めて、出て行かれたという。
これにより戦火は地球全域を覆うこととなり、全世界規模の第二次世界大戦へと人類は突入している。
当時米国は、欧州の戦争に直接参戦は未だしていないものの、ナチス・ドイツとは明確に対峙しており、対日交渉に於いても、平和的に解決し得る構図のものではそもそも無いので、いずれ参戦は避けられないとの考えもあったろうし、日本軍の戦争準備の兆候も諜報情報によりある程度把握しており、”日本に先に手を出させる”との戦略方針もあったろうが、350機余りの作戦機を集中運用し、2時間余りに亘って太平洋艦隊の根拠地であるパール・ハーバーが痛撃されるとは、想定外だったろうか。
平和解決の外交交渉の最中に突如として日本が攻撃して来たことに驚いたのでなく、米政府高官や軍高官は、極めて高度な軍事航空作戦能力を日本が有するのを具体的な形で示された事に驚愕した、と言うところだろうか。
今次大戦に下級将校として参戦した経験を持つ我が家の帝國陸軍は、昭和16年当時は陸軍士官学校生徒であった。 9月15日に予定されていた卒業を控えて、その年の夏は各兵科毎に最後の卒業演習に励んでいた。
野営演習中の7月初め、突如として”演習中止、集合”の命令が下り、座間本校に引揚げ、7月中旬に繰り上げの卒業式が慌しく執り行われている。
士官学校を卒業したからといって直ぐに小隊長として部隊指揮が出来るというものでなく、卒業後は各兵科毎の学校(歩兵学校、戦車学校、工兵学校等)に数か月行って専門を修得してからということになる。
来るべき戦争の凡その開始時期から逆算して、繰上げ卒業が為されたものであったろう。
当時は軍が進出した支那大陸において既に戦闘が継続していた時代であり、軍籍に身を置く者として生徒達は、”人生50年、俺たち半額25年”と嘯いていたというが、それも対英米戦ともなれば、日本が嘗て経験したことの無い大変な戦争になることは軍人だけに予想が付いた。
一通りの訓示を終えて窓際に立っていた区隊長が、「偉い人がどんなに頑張っても、どうにもならないこともあるのだなあ」と、独り言のように呟いていたのを憶えているという。
皇国日本が核心となって大東亜を新たに興し、天皇の御光を日本人のみならず数多外国人にも知らしめ、八紘に一宇する平和を築くことが、当時の日本の考える正義・大義であったろうし、世界のどの国も認めず、日本が国際連盟を脱退することとなった満州國問題も、”守れ満州、日本の生命線”と叫ばれ、新聞などのマスコミや、社会のオピニオン・リーダーたちも、英米排撃、国民の団結・犠牲・覚悟を率先して煽っていた時代である。
昭和16年の夏以降などは、戦争へ戦争へと転がる大きな歴史の歯車は、もはや誰にもどうにも止められない勢いであったろうか。
今次大戦での犠牲者は日本人だけでも300万人と言われるが、陸士55期の一千七百有余の若者もその過半は25歳に達することもなく、戦場の露と消えている。
陸軍予科士官学校時代の檜野生徒。 昭和14年4月に市ヶ谷台の正面玄関前で写真屋が撮ってくれたものだという。
後ろのバルコニーは、後に三島由紀夫が檄を飛ばすことになったところ。
当時の予科士官学校長は牛島満閣下。
沖縄の第32軍司令官として、昭和20年6月23日摩文仁の洞窟で自決された将官である。
学校なので時々ペーパー・テストがあったそうだが、卑怯な振る舞いを最も賎しむべき事とする軍人であり、カンニングなど無かったので立会いの区隊長(教官)も至ってのんびりしたものだったそうで、特に根来区隊長(根来卓美:戦後航空自衛隊。航空総隊司令官)などは大胆で、”はじめ”と言うなり自分はグウグウと寝て仕舞っていたという。
ある時、校長閣下がテスト中の教室に視察に入ってこられた事があったという。 根来区隊長は気付かず、相変わらずグウグウと気持ち良さげに御眠りである。
校長は、その儘音を立てぬよう静に扉を閉めて、出て行かれたという。