ひと月?放っておくと広告宣伝がトップに踊り出てくるようである。

では、祝・東京オリンピック再び。

前回は1964年(昭和39年)の東京大会であった。

本来は、1940年(昭和15年)に、1936年のベルリン大会に続いて東京でのオリンピック開催が予定されていたそうだが、戦雲が全世界を覆うような状況になって、オリンピックどころではなくなってしまっている。

戦争で何処の都市も一面の焼け野原と化し、食うや食わずの生活であった日本も、奇跡的なスピードでやっと復興を遂げ、アジアで初めてという1964年国際オリンピック大会を東京で開催出来た意義は大きかったことだろう。

開会式が行なわれた国立競技場は、嘗てその場所で昭和18年10月に学徒出陣の壮行会が雨の降るなか挙行されたところだというが、戦後の復興を担ったのも戦火を潜り抜けて生き延びた世代であったろうから、「戦友よ、亡き友よ、見てくれ遂にここまで復興したぞ」との感慨も大きかったろうか。

開会式の前日は風雨だったそうで、当日の天候が危ぶまれたそうであるが、10月10日の朝は見事な秋晴れとなっている。

昭和天皇が行幸される時は不思議と晴れるというジンクスがあったが、この日も見事な日本晴れとなっている。

空自浜松基地のブルーインパルスが、会場の上空1万フィートに直径6千フィートという、おおきな五輪の五色の輪を描いている。
当時の使用機は、「三菱ノースアメリカンF-86F」であり、自分の思う通りの操縦が効くレスポンスの良い戦闘機らしい戦闘機であったというが、速度250ノット60度バンク2G維持の旋回で輪を描いたそうだが、上空は風もあるだろうし、発足して未だ間もなかった”インパルス・ブルー”は、高い操縦技量の見事なチームワークを見せている。(

オリンピックの五輪の輪は会場ばかりでなく東京中から見えたことだろう。

当時は日本中がオリンピック・ムードの”お祭り気分”であったようだが、戦後復興を遂げた日本を象徴する国際大会であったから、それだけの意義はあったろう。

宮城県の学校でも、日本チームが出場する主要な試合は、授業そっちのけでテレビ観賞させられていた記憶がある。
どころか、苦労してチケットを入手し、わざわざ上京して試合を見に行った先生もいたようである。
自分の有給休暇としても、学期中に有り得ない話だろうが、もう”オリンピックぢゃしょうがないだろ”ということだったろうか。

自分が跳んだり撥ねたりしてメダルを貰うわけでないので、どうでもいいのだが、厭な勉強をしないでよいのが無性に嬉しかった記憶がある。

おれが基礎学力に著しく欠けているのは、東京オリンピックのせいである。

参考:「1964年東京大会開会式」-Youtube

”国民歌手”と言われた三波春夫の、「東京五輪音頭」が日本中に流れていた。
Youtubeー三波春夫の東京五輪音頭
人前で怒った顔や不快なところを見せた事が無く、「お客様は神様です」の言葉を残した三波春夫も、仏様になられてからもう久しいだろうか。

当時は東海道新幹線を開通させ、戦後初の国産旅客機YS-11が聖火を運び、東京にも高速道路を延ばして、”もうドンドンやろう”という雰囲気だったようだが、反面、お江戸日本橋の上を高速道が跨ぐ有様で、現代の感覚からすると「なんたることをサンタルチヤ」という一面もあったろうか。
”気にしない気にしない、ブワーッと行こう!”という当時の象徴は植木等か。
Youtube-植木等の東京五輪音頭

さて、2020年の東京オリンピックはどんな姿の日本を見せてくれることだろうか。