Bandoalphaのらく書き帳

故郷離れてはるばる千里、ひとつ山越しゃ他國の星がぁ・・・昭和の終末高齢者! 思い付いた時に思いついた事などのテキト~なメモ書きらく書き帳ですぅ。 桧野俊弘 ご意見メールは:Bandoalpha@msn.com

2017年12月

Merry Christmas 2017

恒例の空軍音楽隊によるFlash Mob。

United States Air Force Band Holiday Flash Mob 2017



夜の帳が降るとともに、待っていたかのように粉雪(こゆき)が降り出してきた。

世界が白くなり、ゆく車もほぼ途絶えて今宵はなんとも静寂な夜である。

何はともあれ、基督様に先ず一献!

Merry Christmas


東京大衆歌謡楽團

 先日はコンサートに行った。

 おれは音痴だから自分から進んでコンサートに行くことはないのだが、小荷駄方ならびに勘定方、およびに駕籠足軽として大奥からお声ががかかるのである。

 コンサート前のレストランへの道すがら眺めたNAVY BASEには、アーレイ・バーク級のDDGが2はい舫っているのみであった。 言う迄もなく他の艦船は極東海域に展開中である。

 朝鮮半島の緊張が伝えられる昨今であるが、事変と言うのは起きればあっという間に戦闘状態が展開してゆく。 それは明日起きるかも知れないし、生涯起きないかも知れないが、もし満一事態に直面した場合には、海軍さんには「自らの生命の危険を顧みず、与えられた任務を完遂する」よう頑張ってもらうほかにない。

 ちなみに「アーレイ・バーク級」のその名の由来は、かの「31-knot Burke」であり、川戸さんに聞かされた草鹿(任一)中将の話など思い出しながら基地前を過ぎてゆく。

 クリスマス・コンサートツアーなのだそうだが、もうそんな季節である。

 中休み時間にぶらぶらすると、便所は行列だし売店を覗いてもアルコール類は見当たらないので暇であるから、スタッフの人と立ち話をした。

 今朝の6時から準備にかかっていたそうで、コンサート終了後に撤収の片づけをやるから終わるのは午前1時頃になるだろうと言う。

 照明はじめステージの設定、音合わせ、通しでリハーサル、調整そして再度確認・・・コンサートの成否というのもどれだけ事前準備を真剣にやっているかに掛るのだろうから、そんなものなのであろう。

 売れっ子のエンターテイナーともなれば俺のような貧乏人には想像もつかないような高額所得になるのだろうが、所謂裏方の平スタッフではそうもいかないのだろうしこれも好きでなければ続かない仕事であろう。

 YouTubeを見ていたら「東京大衆歌謡楽団」というのが最近あるようだ。

 昭和のそれも戦争前の大衆歌謡曲を主に歌っての路上パフォーマンスを普段はやっているようであり、路上に置いた帽子に聴衆が思い思いにお金を入れたりしている。

 コンサートのように「〇席はいくら。〇席ならいくら。」と金額が決まっているわけではないので、夫々が自らに由って決めるのであるから真に自由であり自然である。

 なかには資産家の老人の切る万札もあるのだろうし、月額5万円の国民年金で何とか口を糊にしている老婆の入れるコインもあるだろうが、「懐かしい歌良かった。上手ですよ、ありがとう。」の気持ちに両者に差は無いのであるから、「お聴き頂き、誠に有難うございます。」の高島孝太朗氏のお礼のお辞儀に変わりは生じまい。

 戦前の昭和の時代と言うのは今では社会の大方の人にとってはお祖父さんお祖母さんの思い出話になるのだろうが、俺にとっては、酒を酌み交わしながらの夜話に親父の語っていた世界でありまだ生々しい。

 飽食の現代からは考えられないような、つつましやかに大半の人々は暮していた時代であり、社会は貧しくもありまた未成熟でもあり、「古き良き時代」と一言で決められるものでは無いだろうが、日本人として、男として、女としてあるいは其々の職業人として、貧しくとも強く矜持を持って日本人が生きていた時代である。

 今の時代に「昭和の大衆歌謡のパフォーマンス」というものにどれ程の人が興味を持つのかわからないが、LEDの青白い光が目を刺すように凛凛と光る時代に、ほんやりとした瓦斯灯の火を灯さんとするものか。

 寒風に吹かれて時おり今にも消えるかと思える灯火だが、どっこい昭和大衆歌謡の灯はともり続けている。

 酒、旨し。



 こちらは東海林太郎の歌う原曲の「ハルピン旅愁」。 直立不動で歌う歌手として有名だったが、歌に対する本人の姿勢の表れだったろうか。 当時は大陸それも満州の歌がやはり多いようである。 
 「東京大衆歌謡楽団」のパフォーマンスの場にもしも居たならば、「いよッ!東海林孝太朗!」と声を掛けるようだろうか。



 満州での写真。
 我が家の帝國陸軍が、予科士官学校を終えて配属先の原隊となる北満孫呉の第一師団工兵第一連隊に隊附勤務のときのものである。 最初の階級は上等兵であり、兵・下士官の勤務を半年間実地に体験するわけである。 その後士官学校本科に入校し昭和十六年秋に卒業、第一線小隊長として大戦に突入することとなる陸士55期生の若武者たちである。 昭和十四年頃?であろうか。

Manshu-1A
 教官である軍曹殿の話を氷結した河上で聞いているところのようである。 笑顔を見せている小柄な方は大戦で戦死されたとのこと。 図体の大きいのが我が家の帝國陸軍であろう。 柴田さんもおられる筈だが今となっては判然としない。

 満州では日本酒(さけ)が凍ったという。

 頭号師団である第一師団は本来であれば派遣任務終了後は速やかに東京に戻り、帝都の鎮めに任ずべきところだろうが、「(第一師団は)やっちまっているので、内地に戻されることは無いのだ」と兵隊たちは話していたものだという。
 
 「やっちまっている」とは、昭和11年の226事件で決起部隊(反乱部隊)の主力が第一師団より出ていることである。

 第一師団はその後昭和19年10月に北満孫呉より比島レイテに投入され、レイテ決戦に於いて壊滅している。



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