曽野綾子のコラム記事の件で、産経新聞社宛に出された、駐日南アフリカ共和国大使名の「抗議文」(掲載下記)が、同国大使館のフェース・ブックに公示されていた。(南ア大使館HP)
曽野綾子のコラムが掲載されたのは、2月11日の産経紙面であったと云い、「抗議文」は2月13日付けであるから、随分と即座な反応ということになるが、駐日南アフリカ大使のMohau Pheko女史としては、日本の主要な全国紙の一つである産経新聞のコラムに於いて、南アフリカの「実情」と称するものを例に出して、だから「居住区は白人、黒人、アジア人というように別にしたほうがいい」、との提言が日本の社会になされているのでは、これは看過するわけにはゆかなかったであろうか。
白人、黒人、アジア人というように肌の色で人間を区別することは、アパルトヘイトの思想そのものであり、南アフリカ現地住民がどれほどの辛惨を舐め、どれほどの犠牲を払って、同じ人間としての束縛・差別からの自由を勝ち取って、今日の南アフリカ共和国があるのかを思えば、当然であろうか。
曽野綾子も、保守派論客として、自身のコラムに一部のいわゆる左翼の低俗な人間が”興奮”するのは何時ものこととしても、まさか、南アフリカの大使までも興奮させてしまうとは、想定外であったことだろうか。
南アフリカ大使より抗議文を受けとった産経新聞社が、どのような返答を同大使館宛出したのか?は定かでないが、小林毅産経新聞執行役員東京編集局長の、「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は一貫してアパルトヘイトはもとより、人間差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」との談話が、2月15日の産経朝刊に載ったそうであるから、南ア大使に返答しているとすれば同様趣旨のものであろうか。
産経新聞が、特定の作者の連載コラムを掲載するのは、なにも白紙面を埋めるために作者個人の経験を掲載するわけでなく、社会の公器である新聞として、その作者の「ものの見方、考え方」を重用して、高名な作家であれば安くは無いであろう原稿料も払って、その作者の社会への提言を掲載しているものであろう。
曽野綾子は、人種によって居住区を別けることは単なる「区別」であり、「差別」ではないのだから、問題無いとの主張である。
アパルトヘイトと言うものは、「見たこともないし、全くわからない」と言うのも慎重に考えて選んだ言葉であり、けっして老人性痴呆(ボケ)ているわけではない。
国際的にも国内的にも、政策や法律によって人種により区別することが出来ない時代であることは十分に承知しており、社会的に人種毎に居住区を別けることを提言している。
「日本は法の下の平等は保障されております」(管官房長官2月13日)と公的にはされていても、社会的に実質上の居住区を人種により別けようというのは、手法が老獪姑息であり、却って性質が悪いともとられようか。
「人種差別撤廃に関する国際条約」ではないが、人種の違いによる偏見や差別を無くそうと努めている国際社会の諸国とは、全く異質の提言であり、コラム作者個人の考えはそれとしても、掲載した産経新聞社は「人間差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」とだけの説明では、「区別」については作者同様許容するのか?との疑問も沸く。
本質から乖離して「差別」だ「区別」だと言葉を論うのでは、些か言葉使いの化け物みたいな話であるが、報道機関として国内外の理解を得るには、も少し明確で丁寧な自社の立場の説明が、産経新聞社は要るであろう。
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曽野綾子のコラムが掲載されたのは、2月11日の産経紙面であったと云い、「抗議文」は2月13日付けであるから、随分と即座な反応ということになるが、駐日南アフリカ大使のMohau Pheko女史としては、日本の主要な全国紙の一つである産経新聞のコラムに於いて、南アフリカの「実情」と称するものを例に出して、だから「居住区は白人、黒人、アジア人というように別にしたほうがいい」、との提言が日本の社会になされているのでは、これは看過するわけにはゆかなかったであろうか。
白人、黒人、アジア人というように肌の色で人間を区別することは、アパルトヘイトの思想そのものであり、南アフリカ現地住民がどれほどの辛惨を舐め、どれほどの犠牲を払って、同じ人間としての束縛・差別からの自由を勝ち取って、今日の南アフリカ共和国があるのかを思えば、当然であろうか。
曽野綾子も、保守派論客として、自身のコラムに一部のいわゆる左翼の低俗な人間が”興奮”するのは何時ものこととしても、まさか、南アフリカの大使までも興奮させてしまうとは、想定外であったことだろうか。
南アフリカ大使より抗議文を受けとった産経新聞社が、どのような返答を同大使館宛出したのか?は定かでないが、小林毅産経新聞執行役員東京編集局長の、「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は一貫してアパルトヘイトはもとより、人間差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」との談話が、2月15日の産経朝刊に載ったそうであるから、南ア大使に返答しているとすれば同様趣旨のものであろうか。
産経新聞が、特定の作者の連載コラムを掲載するのは、なにも白紙面を埋めるために作者個人の経験を掲載するわけでなく、社会の公器である新聞として、その作者の「ものの見方、考え方」を重用して、高名な作家であれば安くは無いであろう原稿料も払って、その作者の社会への提言を掲載しているものであろう。
曽野綾子は、人種によって居住区を別けることは単なる「区別」であり、「差別」ではないのだから、問題無いとの主張である。
アパルトヘイトと言うものは、「見たこともないし、全くわからない」と言うのも慎重に考えて選んだ言葉であり、けっして老人性痴呆(ボケ)ているわけではない。
国際的にも国内的にも、政策や法律によって人種により区別することが出来ない時代であることは十分に承知しており、社会的に人種毎に居住区を別けることを提言している。
「日本は法の下の平等は保障されております」(管官房長官2月13日)と公的にはされていても、社会的に実質上の居住区を人種により別けようというのは、手法が老獪姑息であり、却って性質が悪いともとられようか。
「人種差別撤廃に関する国際条約」ではないが、人種の違いによる偏見や差別を無くそうと努めている国際社会の諸国とは、全く異質の提言であり、コラム作者個人の考えはそれとしても、掲載した産経新聞社は「人間差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」とだけの説明では、「区別」については作者同様許容するのか?との疑問も沸く。
本質から乖離して「差別」だ「区別」だと言葉を論うのでは、些か言葉使いの化け物みたいな話であるが、報道機関として国内外の理解を得るには、も少し明確で丁寧な自社の立場の説明が、産経新聞社は要るであろう。
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