Bandoalphaのらく書き帳

故郷離れてはるばる千里、ひとつ山越しゃ他國の星がぁ・・・昭和の終末高齢者! 思い付いた時に思いついた事などのテキト~なメモ書きらく書き帳ですぅ。 桧野俊弘 ご意見メールは:Bandoalpha@msn.com

大和の國への旅

日本国の鎖国も解除かな

 COVID-19コロナ騒動で、一時帰国するにはワクチンの接種証明書だとか陰性証明書とかを「所定の様式」のもので提出だとか、国内で居場所が把握できるアプリ云々と・・・無精者の小輩にとってはこうゆう面倒な事では気が滅入り、鎖国状態だった日本も5月からは平常に戻るような。

 ただ、(仮称)感染症ゲノムサーベイランスというのが開始されるとあるが、これはどんな感じのものなのか?
羽田空港の入国検疫で、下半身に当てた検知器がピッピッピッィと鳴って、「あぁ、アンタ感染しとるね」で即隔離・強制退去になるようだとヤバイが。

◇◇◇
外務省海外安全ホームページ 最新情報

43日、新型コロナウイルス感染症に関する今後の水際措置の詳細が公表されました。措置の概要は以下のとおりです。

1.令和5年5月8日に予定されている新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置づけの変更に伴い、新型コロナウイルス感染症に係る水際措置(臨時的な措置を含む)を終了する予定です。一方で、新たな感染症の流入を平時においても監視するための「感染症ゲノムサーベイランス(仮称)」が5月8日に開始されます。

詳細は以下のリンク先をご確認ください。
(PC)==> https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2023C019.html

出発前には海外安全ホームページをチェック!
https://www.anzen.mofa.go.jp/

このメールは在留届を提出した方と「たびレジ」に登録した方に、配信しています。
◇◇◇

変わらない日本の社会

僕かあ、お酒なんかも弱いしあんまり好きでもないので良くは解らないのだが。

「お酒が人生で二番目に大好き!」とゆういわゆる「酒飲み」というのは、立ち飲みに始まり立ち飲みで終わるものだろうか。

若い頃の立ち飲みでの一杯の冷えたビールに始まる人生の酒の旅は、居酒屋での付き合い酒、領収書を忘れぬようにの接待酒、馴染みのスナックの看板までの酒、うす暗いソファーに侍った夜の蝶の作る水割りの酒、賑やかな大広間での〇〇会のパーティ酒・・・そんな酒席巡りの喧騒も過ぎたあと、一人静にしみじみ酒の味を愉しむには、やはりふらりと寄る立ち飲みとなるだろうか。

調べると台東区上野辺りに立ち飲みのせんべろ銘店というのが揃っているようである。(

一時帰国のときは空港から東京駅、そして東北新幹線で仙台駅へと直行しているのだが、なにもそう急ぐことはない。待ってる人など誰もいないのだから。
見ると東北新幹線というのは、いずれの列車も上野駅には停車するようである。 上野が東北地方への玄関であった昔の名残なのだろうか?(あゝ上野駅

今度は上野辺りで一杯やっていこう。

ほろ酔いで重いスーツケースを引き摺るのがしんどければ、空港で宅配を頼めば良いが、最近はクロネコも忙しいようだから、運動方々ズルズル引き摺って歩くことにすれば、浮いた宅配料でもう一軒寄れる。

東京駅に着いたら先ずは切符を買わねば。
「東北新幹線、指定席大人一枚、上野まで。」


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「カドクラ」「大統領」そして「肉の大山」、向かいには「たきおか」。この路地がせんべろ呑兵衛の聖地だろうか。

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御徒町のガード下になるが、「新潟の酒」が揃っているという「味の笛」は気になる。
越の三梅などは嘗ては幻の銘酒として入手自体困難な時代もあったと思ったが? 北雪なども佐渡にこんな酒があったのかと思うほどにうまい。
スーツケースを引き摺ってる人もいるようである。 俺の使っているスーツケースは川戸さんの遺したもの、肩掛けのバッグはスチーブの遺していったもの。何時も三人で太平洋を超える旅をしている。
最近は流石にいずれもくたびれて来ており、俺の風体で白昼ガード下をヨタヨタ歩いていたらアル中の路上生活者に見られそうだ。何年振りかで旧友にバッタリ出くわしたら、何も言わずに千円くれたりして・・・

「犬はいいが、猫はダメだ~」
「ぶくぶくぶくぶく煮てもあぶくばっか出てよお~」
今宵の酒友となった肉体労働のとっつあんが仕事にあぶれた時のグルメ談義を聞かせてくれる。
奥では暴力沙汰でのお勤めを終えて先週出てきたばかりという男が、野獣が獲物を探すような目付きで時々こちらを睨む。
ぼくの好きだった昭和の高級立ち飲み店には、そんな心地よい緊張感が漂っていたものだが、最近の立ち飲みというのはどうなのだろうか。

機内持ち込み

携行バックなどの制限サイズ

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霧のエアポート

全日空が7月25日よりシアトルー成田路線を開設するという。(

新鋭機である787を投入する路線のようだが、機材繰りの関係で当初は777-300ERで運行し、秋以降に787に切り替えるとのことのようだ。
久しぶりに「日の丸の翼」がSea-Tac空港を離発着することになる。

暫く前になるが、日本航空がシアトルー成田路線を運行していたことがあった。

この日本航空便でシアトルに訪米される方を、Sea-Tac空港まで出迎えに行ったことがあった。
空港に着いて見ると、飛行機は遅れており、「到着は何時になるのか解らない」のだと言う。

海に近いこの空港は、稀に気ままな海霧が押寄せて来、空港をすっぽりと蓋ってしまうことがある。
着陸出来なくなった定期便は、上空でぐるぐるとホールディング・パターン飛行したり、或いは近郊の飛行場にダイバートして、霧が退いて着陸許可が出るのを待つこととなる。

海霧というのは寄せて来る時も早いものだが、退く時も”すぅ~”とばかりに、今まで視界ゼロのミルク色の世界だったものが見る見る嘘のような青空に変わったりするので、運転手君としては、何処かに行くわけにもいかず、人気も失せたターミナルの長い椅子に一人ぽつんと座って只管待つことになる。

相手は霧である。
慌てても仕方ないので、靴を脱いで、若干匂う靴下も取って、水虫の手入れをしていた。

「どなたか、お待ちですか?」
突然の頭上の声に慌てて見上げると、そこにはメガネの男の四角い難しい顔があった。

日航の吉田空港支店長と言う方であったが、ターミナルを巡回中、いかにも挙動不審な男が居たので、言葉こそ丁寧ではあったが、誰何したものであったろう。

若干おかしくはあるが、怪しくはないことが解ったのだろう、色々お話をお聞きすると、脇本さんとは陸航士60期の同期なのだという。
戦争中調布の飛行第244戦隊で整備隊長をされた茂呂さんが調布に居られた頃である。

飛行第244戦隊というのは、帝都東京に来襲するB-29群に対して、空中で体当たりまでして迎撃していた「醜の御楯」の帝國陸軍戦闘機隊である。
小林戦隊長自らもB-29に体当たりしているそうだが、「震天制空隊」と称する空中体当たり専門のチームが編成されていたという。

B-29は1回や2回の航過射撃では撃墜は困難で、速度や高空性能にも優れているので当時の日本の戦闘機では反復攻撃自体がそもそも至難の技であった。
ぶつかって墜そう、とうことだったろうが、対艦船特攻と違って、体当たり後は落下傘で脱出しー出来ればの話だろうがー、何回でも体当たり迎撃に上がるものであった。

東京上空で繰り広げられる迎撃戦の様子は地上の防空監視員からもよく見えたという。

ある時、キラキラと輝る小さな戦闘機がB-29に体当たりしこれに黒煙を噴かせたと見るや、戦闘機の乗員は脱出し降下した。
ナントカ伍長とか軍曹とかいうその乗員は、落下傘を開こうともがいている様子であったが、落下傘が開かないとみるや、空中で直立不動の姿勢をとると皇居に向かって挙手敬礼をし、そのままの姿勢で工場の屋根に激突戦死した、という話を三鷹の住民から聞いたことがあった。

”上にいる”のだという乳白色の空を眺めながら、飛行機の四方山話を伺っているうちに、霧も晴れてきたようである。
上空に待機して居たジャンボ機もそろそろ降りてくるようだ。

吉田支店長はターミナルを繋ぐ無人地下鉄に日本語の案内アナウンスを導入させる等、ぐぁんぐぁんとやっていたから空港事務所もさぞ困ったことだろうか。
別れ際に、「何か急ぎのものがある時は何時でも言って下さい、持たせてやりますので。」と、まるで当方の事情を承知しているかのように、力強くおっしゃて戴いたのは有難いことであった。

思えばあの頃の日本人というのは、自分がどうのとか自分の組織や会社の事ばかりでなく、産業振興で「国の為に」という思いが、心底にはあったように思う。

私自身も、シアトルに戻る飛行機が霧で降りられず、乗機がバンクーバー空港にダイバートしたことがあった。

バンクーバー空港では、臨時にお邪魔している機体であるから、ターミナルからは遠く離れた駐機場に並んでパークし、機外には出られない。

こうなると人種は違っても皆考える事は同じで、ギャリーに通って「酒を。何でもいいから」となる。
元々着陸寸前の機体であるから、2杯も飲んだらもう酒は無くなっていた。
あとは哀しい事に、捨てられない最後の缶を手に、時おり天を仰いで飲んだふりをするしかなくなってしまう。

当時日本航空というのは若干運賃が高かったようで、私の乗ったのは運賃の安い米系のエアラインであった。
米系でも太平洋線には日本人の客室乗務員も乗っている。
時間ばかりが余っているお蔭で、憧れの”花のスッチー”さんとも愉しくおしゃべりをすることが出来た。
幸い、まだ若い初々しい感じの綺麗な方であった。

やがて霧も晴れたようで、駐機していた機体が一斉に動き出す。
バンクーバーからシアトルまでは、74だと離陸したら、もう着陸アプローチである。
やっと着いたと思い、通関手続きの列に並んでいると、乗員用通関口にクリューたちがやって来た。
見ていると先ほどのスッチーさんもやって来た。
相手もこちらに気付いたようで、「わ~、お元気で~」と手を振ってくれた。
私も調子を合わせて大きく手を振っていた。
前の家族連れの男の子が、”このおやぢ、バカぢぁねの?”と言った目でこちらを見ているのが若干気にはなったのだが・・・

エアポートの霧というのも悪くはない。

シンガポール・スリング

しかし先日のシンガポールの「Aさんぱちまる」だが、

悪くは無いのだが、LA経由だとシャトル・バスが家に来るのが午前4時40分。
この時間じゃ、寝てるヒマは無いよねえ~
サウス・ウエストに拘らず、連絡便をも少し工夫すれば、少しは時間がとれるだろうか。

シンガポール航空は、客室乗務員のあのナントカ言う、変らぬ民族衣装に感動する。
同社のインフライト・サービスのホスピタリティーの良さは定評のあるところだが、数えたわけではないが、乗客当りのアテンダント数は他社に比べて濃い(配置人員が多い)ような感じを受ける。
そして、若い娘ばっかし。
アメリカンの倒産したエアラインみたいに、後期高齢者がいない。

日本も昔はそうであったように、スチワーディスには年齢制限がされているのではなかろうか。
米国ではEEO(雇用機会均等法)などが厳格で、年齢制限や体重制限など、したくても無理な話だが。

「お飲み物は、如何ですか?」
と言うので、「タイガー・ビヤ」も気になったのだが、「シンガポール・スリング」をパーサーの彼女に作って頂いた。
パーサーになると、民族衣装の柄の色が若干違っている。

「うめッ!」
真っ赤な色をした面妖な酒だが、なんだがウマイ気がした。

エコノミーでも国際線での機上の酒は無料(タダ)である。
ギャリーまで出かけて行って、「君たちはみんな、若くて綺麗だね」、「スマンが、も一杯シンガポール・スリング作ってくれんかな?」等と言って、3~4杯立て続けに飲んだら、便所の前でひっくり返った。

シンガポール・スリング恐るべし。
一体なにが入っているのだろうか?

「しっかりせよと抱き起こし、仮包帯も弾の中」という軍歌「戦友」の一節ではないが、パーサーの彼女が抱き起こしてくれて、近くの席に座らせ、アップル・サイダーを持って来てくれた。
おぢさんは、ミルクのほうが好きなのだが。

家でひっくり返っても、Jはオレを跨いで行くし、猫まで俺を踏んづけて行きやがるが、シンガポール航空のホスピタリティーに感動する。

酔っていて名前とe-mailを聞くのを忘れたが、日本人のようだが、なかなか綺麗な女(ひと)であった。 お世話になりました。

ぼくたち、きっと運命的出会いだね。

また会えるといいね、僕たち。
今度は、欧州線のパリス行きの便かなんかで。

ぼく、独身ですう。


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